• 「伝統を守るために挑戦し続けます」(前編)
    司牡丹酒造株式会社
    代表取締役 竹村昭彦氏

    弁護士山口智寛が時代をリードするリーダーたちに突撃インタビューを敢行するシリーズ。今回は、「船中八策」や「司牡丹」などの名酒を生み出している高知県の司牡丹酒造株式会社の代表・竹村昭彦氏にインタビューに応じていただきました。

    【司牡丹酒造株式会社概要】(2018年2月現在)

    所 在:高知県高岡郡佐川町甲1299番地
    創 業:1603年(会社設立は1918年)
    事業内容:日本酒の製造、販売
    Webサイト:http://www.tsukasabotan.co.jp/

    創業400年を超える日本を代表する老舗酒造。関ヶ原の合戦の殊勲により、土佐に入国した山内一豊から、佐川領一万石を賜った家老の深尾氏に従ってきた酒蔵が前身。司牡丹という社名には「牡丹は百花の王、さらに牡丹の司であれ」という思いが込められている。「『土佐』『本物』『エコロジー』にこだわった美味しい日本酒を製造販売し、人々にワクワクするような日本酒の愉しさを伝道する。その結果、個人には元気と健康と幸せを、社会には潤滑で円満な人間関係をもたらし、世の中に進歩と調和をもたらす。」ことを使命として掲げる。

    【竹村昭彦プロフィール】

    昭和37年(1962年)、高知県佐川町に司牡丹酒造の跡取り息子として生まれる。学習院大学経済学部経営学科を卒業後、東京のファッション雑貨や菓子を扱う会社に入社し、5年間第一線の営業を勤める。平成2年(1990年)故郷の高知に戻り、司牡丹酒造株式会社に入社。平成11年(1999年)代表取締役社長に就任、平成27年からは高知県酒造組合理事長にも就任。

    多忙な日常の傍ら、「食べ物」や「飲み物」、そして「言葉」を切り口に、幸せになる裏バナシを日記風に語っていくブログ「口は幸せのもと!」をほぼ毎日更新。内容もさることながら、土佐弁で綴るその独特の文章センスが評判を集めている。

     あこがれの東京で待っていたものとは

    山口:高校時代まで高知の地元にいて、どうして学習院大学に進学されたのですか。

    高校は地元の進学校でしたが、とにかく東京に行きたかったんです。司牡丹を継ぐとかそういうことは全く考えていなくて、どこでも良いから東京の大学に行きたかった。高校の成績はそんなに良くありませんでしたが、3年生のときの担任の先生が学習院への推薦枠に私を推してくれました。進学高って、進学率を上げるために、まともに大学受験したら危ない人を推薦枠に回すんですよ(笑)。その代わり「お前が大学で留年すると後輩たちの推薦枠が無くなるから、絶対留年するなよ」と散々言われました。

    推薦で入れる東京の大学というだけで進学した学習院ですが、実は不思議な縁がありました。司牡丹という名前は田中光顕伯爵(※明治政府で宮内大臣などの要職を務めた佐川町出身の維新の志士)が命名されたものなのですが、この方、学習院院長も歴任されているのです。今になって考えると、私が学習院に進学したのも運命だったのかもしれませんね。

    山口:大学生時代はどのように過ごしていましたか。

    今はもう無くなってしまったのですが、当時、地方から学習院大学に入学した人を入れてくれる昭和寮という寮が目白にあって、そこに住んでいました。六畳一間を2人で使って、風呂は2日に1回しか入れない。今の若い人は知らないと思いますけど、部屋の窓ガラスはサッシなどではなく、穴にネジ棒を突っ込んでキュッキュッて回して締めるやつですから、すきま風がすごかったです。

    そして、とにかく嫌だったのが、一気飲み。試験の前になると必ず先輩が日本酒の一升瓶を担いでやって来て、正座で一気飲みをさせられました。当時の時代の雰囲気とか、学生寮特有のノリというのはそういうものでした。そのせいでとは言いませんが、大学1年のときの専門科目の取得単位数が何とゼロ。試験を受けてなかったんです。48単位残したまま大学4年生になって、「卒業は絶対無理だ」と言われていたんですけど、そこから必死に授業に出で、奇跡的に卒業しました。

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    営業職の経験から学んだこと

    山口:大学卒業後、最初は東京で就職されました。どのような仕事をしていたのですか。

    実家の方では私に早く戻ってきて後を継いで欲しいと思っていたようですが、当の私は学生寮で先輩に散々安酒を一気飲みさせられて、日本酒と言えば、この世で一番嫌いな飲み物。当然、家業を継ごうなどという考えは無く、勝手に東京で就職を決めて働き始めました。今はもう無くなってしまったHONEYという会社(※株式会社ハニー)です。代官山に駄菓子の店「ハラッパA」、テディベア専門店「カドリーブラウン」、文具雑貨専門店「キネティクス」、クリスマス専門店「クリスマスカンパニー」などを次々にオープンさせて、よく「オリーブ」とか「アンアン」といった雑誌で紹介されていました。代官山といえばHONEYの町と言われていた時代です。そこで営業の仕事をしていました。

    山口:なぜ司牡丹に戻って家業を継ごうと思ったのですか。

    HONEYでの営業職を5年間続けて、何か新しいことに取り組んでも良いのではないかと考えていました。HONEYという会社は洋風のものを中心に取り扱っていたのですが、ある時、今でも別会社となって残っている「かまわぬ」という手拭い屋をオープンしたんです。これがすごく斬新で、単純に「和風のものって格好いいな」と思いました。また、その頃、寮で一気飲みさせられていたような安酒とは全然違う美味しい日本酒が流通するようになってきていて、日本酒にも美味しいのと不味いのがあるということがわかってきました。以前は全く興味が無かった家業の方に自然と関心が向いてきたんですね。

    HONEYグループはいろいろな事業をやっていましたが、全てに共通するコンセプトは「Just my favorite stuff」、日本語では「好きなカタチいろいろ」でした。いろいろな種類のものの中から自分で好きな味、好きな形、好きな色のものを選んで、好きなラッピングをして、好きな人にプレゼントする、そんなワクワクやドキドキのお手伝いをするということです。このHONEYの遺伝子は私にも深く浸透していて、この世で一番嫌いだと思っていた日本酒にも美味しいのと不味いのがあるということがわかってくると、美味しい日本酒を世に広めて飲む人にワクワクしてもらうことに専念するのも悪くないなと思えてきたんです。

    そんなふうに自分の関心の向く先やタイミングなどがたまたま重なって、最終的に地元に戻って司牡丹に入社することを決めました。

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